――今回、新たにゲスト審査員が入ることについてどのような印象を持たれていますか?

中村僕は良いと思いました。審査員は固定されると慣れてしまうし、クリティカルな意識がなくなるので変わったほうがいい気がしています。同じ人とずっと話し続けているとフレッシュじゃなくなる感じにも似ているというか。

深澤うん、そうですね。新しい人が入ってまた違う視点を得られるのはとてもいいことじゃないかな。第5回からこのコンペティションに参加している印象でいうと、時代も変わっているしコンペ自体がかなり変化しています。最初はシヤチハタだから印鑑という部分がとても大きかったですが、いまはたぶん違う方向を目指しています。印鑑は「しるし」全体における一部分になっている。
変わっていないこととしては、コンペをはじめた当初から新しい何かをほしがっているというより、いろいろな人が「しるし」自体について真面目に考え、参加してほしいといった大らかさを感じています。


深澤前回のコンペで三澤(遥)さんが新たに審査員に加わったときもちょっと変わった感じがありましたし、実際にコンペで選ばれたものもかなりウィットに富んだものだったし、社会を変える大きな力になるんじゃないかなと期待しています。

――今回のテーマ「思いもよらないしるし」についてはどう考えていますか?

中村たとえば大喜利で「思いもよらない一言」ってなかなか思いつかないから、みんなレス(回答)に困るかもしれないなと感じました。コンペは1,000人くらいの規模でそのテーマについてウンウン考えてもらうわけなので、考えていて面白いお題の方がいいと思っています。たとえ入賞しなくても、その人にとって良い経験になる方が価値があるかなと。
今回のテーマの場合、「思いもよらない」とは誰が主語なのかちょっとわからなくて、シヤチハタの人なのかみんながしるしに対して持つイメージにおける「思いもよらない」なのか。多分後者かと思いますが、そういう意味で、一般の人がしるしに持つ共通イメージはわかりにくいかもと初見では感じました。


深澤今回のテーマを聞いて考えたのは、積極的にしるしを残したいか否かという、人間としての態度です。昔は“記す”ということは、後世に残す強い意志のようなものがあったと思います。でもいまの時代は自分の存在を残したいと思う一方で、余計なものは地球上に残したくないという気持ちもある。自分の「しるし」を残すことは印鑑などからスタートしたけれど、いまはSNS上でのちょっとした言葉も残ってしまう。「思いもよらない」という言葉によってかなり広がりが出たテーマになったのではないかと、自分では解釈しています。

中村よく言う「忘れられる権利」みたいな話題はありますよね。「記したい」ということと逆の欲望が生まれつつあって、それはわりと「思いもよらない」につながるのかもしれないですね。そもそもいまの時代に記したいのか、みたいな。そこを問う気持ちはアイデアにつながるかもしれません。

――人間の歴史のなかで記す対象となるメディアはどんどん変わっていますよね。近年は右クリックで簡単に消せるものになっていて、行為の重みも変化しています。

深澤少し前に、ある故人の石碑のデザインをしてほしいという依頼を受けたことがありますが、すごく困ったんですね。偉大な方だったので残された人たちが記念に残したいと思っているのだけれど、デザインする身からすると「何をそこに記すべきか」ということ自体が、どういう石碑にするのかに関係してきます。その人の功績をどう残し、どうあらわすのか。引き受けると言ったものの、いつになくもがいています。
その人が存在していたということは、本人よりもまわりからの拍手のような感じがあるとは思っていて、たとえばイサムノグチは自分のつくった石の彫刻は自然の石に戻るべきだ、というようなことを言っていたそうです。アーティストでさえ、自分の作品が地球に戻ることを考えていた。人間が生きてきたしるしが多過ぎて、どうやってもともとの自然の一番いい状態に立ち返るかみたいな状況を考えると、テーマとしては面白いかなと思います。


中村少し話がずれるかもしれませんが、たとえばミース・ファン・デル・ローエやル・コルビジェのような、デザイナーとして名を残してきた人っているじゃないですか。ああいう「名を残す」ということは現代や今後においてあるんでしょうかね。50年後くらいにいまを振り返ったときに、デザイン業界では誰の名前が残っているんだろう?とか。
昔はプレイヤー自体が少ないことや、書籍を残す人自体が圧倒的に少なかったですが、いまは多くの人が発信していて、昔に比べると全体としてのレベルもすごく高い。たくさん作品もつくられているから、何をもって名前が残るんだろう?と。同時代の人には絶対にわからないんですけれどね。


――深澤さんと中村さんは、デザイナーとしてのアウトプットに大きな対比がありますよね。深澤さんが質量あるものを多くつくっている一方で、中村さんはデータや形のないものが多い。その点でもしるしについて考えたときに意識が違うのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

深澤自分のことを考えると、たとえば50年先にも残っていて恥ずかしくないかどうか、くらいの気持ちでいまはつくっています。「こんなダサいものをつくってたのか」とは言われたくないですよね。 深澤さんがデザインしたシャンデリア「Mokuren」。
スペインのラグジュアリーポーセリンアートブランド「Lladró」から2023年に発売。

中村デジタルは基本的に残らないから、僕は残らない前提でつくっています。たとえば昔はCD-ROMにいろんなコンテンツを入れるというブームがありましたが、もうその時代につくられたものはフォーマットの関係でほぼ見られません。デジタルデータ自体は永久に残ったとしても、再生するフォーマットがどんどん変化していくから実質見られないものになっていく。短命なんですよね。でもそれはそれで醍醐味があって、数年で消えるから「いまできることをやろう」みたいな気持ちはあります。
昔、橋を設計する会社に勤めていたのですが、戦争などで壊されない限り橋はほぼ永久に残るんですよね。そのデザインを考えるときに、誰かの恣意的なデザインだと決まらなくて、設計の段階で形から個人性を消していくようなプロセスがあるんです。だから「自然にできたもの」という体にして永久に残るものを置く。その形の決められなさみたいなことに対してモヤモヤしていたとき、デジタルの世界に来て「なんて自由なんだ!」と感じたのが原体験としてあります。何してもいいじゃん、すぐ消せるじゃん、みたいな。



中村さんがディレクターを務めたたゲーム『HUMANITY』トレイラー(2023年5月発売)


――たしかにしるし方が全然違いますね。

中村Twitterの発言もすぐ消せますからね。ツイ消しとか言われるけど、いや消せるものだから全然消すでしょ、みたいな。「すぐ消せる感じ」はこのメディアの良いところですね。逆にTwitterを消す行為をあげつらう人たちがいますが、あれはすごくデジタルの自然に逆らっている。深澤さんや原さんと話していると、何年もの時間の堆積に耐え忍ぶような倫理性、みたいなものは自分に圧倒的に欠けていると感じますが……。

深澤でも勇吾さんの場合は、これだけあらゆる人が発信できるデジタルメディアのなかで、プロのデザイナーとしての存在を持っていて、なかなか誰も表現できなかったことを常に求めているような態度を感じます。メディアや表現の仕方が変わっても、こんな時代があったのだときっと思われるのでしょう。

中村瞬間瞬間のポイントで「こういうのも面白いんじゃない?」って反射神経的にやっているのが実際のところですね。たぶん浮世絵の絵師も、100年後とか200年後に評価されると思ってやっているわけではなかったはずなので、その人がいまつくっている価値が記されるよりは、そのあとで再発見する人が記すみたいなことなんですかね。

深澤自分は長い間、デザインのアイデアって絞り出して考え込んでからつくることかなとつい最近まで思っていたんですが、最近勇吾さんとよく一緒に仕事をしているからか、場面場面での対応力はデザインに関係しているなと感じます。
ちょっと悪い言い方ですが、「その場しのぎのうまい人」というか、レスポンスが完璧に合っているというような。言葉や態度、つくるものもアイデアも動いているなかでその流れにうまく対応する能力みたいな。その時々の反応がクリエイティブに繋がっているように感じます。メディアどうこうだけではなく、その人の人格や知識かもしれないし、その場であらゆる方法で「すごいレス」が返って来る感じに興味があります。
同じ言葉でも言い方が違うと全然別物じゃないですか。それはトレーニングしてもなかなかできるものでもなくて、返し方の妙もテニスのギリギリの線でリターンするみたいな、どんなに体幹を鍛えていてもできる人とできない人がいるような、そういう微妙さで世の中のクリエイションってドライブされているのかもしれない。


中村レスの気が利いている人はデザインのレスも効いていると感じることはありますよね。コンペもお題に対するレスといった感覚はあります。

深澤勇吾さんはすごくアイデアを溜めている感じがありますが、「ここで出そう!」ということではなく、本棚からつい手に取ってしまったみたいなところに面白みがあります。レスにせよ、しるしを受け取るのは大量の人ではなく、個人的な一人の相手という場合もあるのかなと思います。最初のハンコ的な概念だと、コピーされていろいろな人に回るような概念を持ちそうな気もするんだけど、相手によって記す方法は全然違うのでそのあたりをぜひコンペで考えてみてほしいですね。


取材・文:角尾 舞
編集:石田織座(JDN)