――今回、岡崎智弘さんがゲスト審査員として参加されますが、岡崎さんの作品の印象や、審査員として期待することはありますか?

グラフィックの業界だけでもないですし、マルチタレントでカテゴリーに縛られない方だから、審査員として適任者だと思います。コマ撮りのすごく細かい動きから見いだした「動くしるし」とでも呼べるものを生み出せる人ですよね。面白いアイデアを生み出して、繊細に動かし、のめり込んで作るさまをリスペクトしています。

こんなことインタビューで言うのもおかしいけれど、お会いした印象はかわいい人ですよね(笑)なんだか漫画チックで、人間受けする方だなと。威圧感を与えず、昆虫好きな少年みたいで、すごく好印象です。審査会で会えるのが嬉しいですし、同時に彼の目にかなうようなものが出てくればいいなと思います。彼がつまらないと言うものは、きっとみんなつまらないと思います。


――今回は「可視化するしるし」というテーマですが、どういう印象をお持ちでしょうか。応募者へのコメントでは、レストランの閉店のしるしや、のれんの話をいただいていて、まさにだと感じました。

たとえば、茶室に客人として呼ばれたとき、飛び石がYの字に分かれている片方の先に「こっちには行かないように」って、縄で縛った石が置いてあるじゃないですか。ああいう止め石なんかも、しるしだと思うんですね。「立入禁止」という意味ですが、すごく美しいですよね。さりげなくそこにある。バーやレストランがクローズしているときに置かれる椅子なんかもそうですよね。排除しない感じもあるし、しるしを通じて相手と対話している。ドアやカーテンをちょっと開けておくのも、しるしの一つですよね。もしかしたら人に会うときの髪型の違いとか、週末にはく靴とかは、自分をしるしているのかもしれない。
コンペだから、印鑑のような何かを直接しるす、跡を残すという感覚で臨む人も多いかもしれないけれど、そうではない「さりげないしるし」が世の中にはいっぱいあります。


――さりげなさが、一つの美しさなんでしょうか。

さりげなさとか、自然さとか。リチャード・ウェントワースという、意図的に考えすぎるものじゃなくて、もっとさらっとしたなかで現れるなにか、をアートとして写真に撮り続けている作家がいます。「Making Do and Getting By」という本を出しているのですが、直訳すると「その場で何とかする」でしょうか。人間の行為をさりげなく誘発する、という感じかな。険しい山道を上るときに、細い木や枝に捕まる行為って自然とありますよね。そうすると、登った人全員ってくらいその木を触るから、そこだけピカピカになるんです。何万人もが作ったハンドルがそこにある。これも、やっぱりしるしじゃないですか。行為が先というのも、ちょっと面白いですよ。


――そういう案をコンペで出すのはなかなか難しいですね。

もう「そういう人間として生きましょう」くらいの概念のアートだから、相当深い話です。意図的にコンペで出すことは非常に難しいですよね。


――意図されすぎた「さりげなさ」はちょっと胡散臭くなってしまうこともあるかもしれません。

それはありますね。でも時と場合によるけれど、そこにある意図がかわいらしいと、それはそれで良いみたいな。わざとらしさが出ている正直さも悪くはない。


――達観の域ですね。

達観ですよ(笑)瞬間的に出れば、もっといいですね。用意周到でないほうがいいかもしれない。気づきに近いのかな。
他にもおまじないみたいな、宗教的、文化的なこともしるしとして考えられますよね。ろうそくに火をつけるみたいなのも。カトリック教会の天井の方に窓があるのも、天から光が射すというしるしかもしれないし。有名な建築家で光を意図的な取り入れ方をしている人もいますよね。そう考えるとデザインするということは、崇高なことになってきます。


――確かに光や自然物との関係性は、これまでの受賞作でもそんなにはなかったかもしれません。

あまり話すと応募者が引っ張られてしまうけれど、これも参考になるかもしれない。アンディー・ゴールズワージーという人は、森なら森の中にあるものだけでインスタレーションをするんです。たとえば、緑色の樹が生い茂るなかで黄色い落ち葉を拾って、それを半分にちぎって、落ち葉の上において、また次のを置いて……と二つの切れ目の線をずっと何十メートルも続けるんですよ。そうすると、黄色の葉っぱの割れ目が見える。まるで自然界に逆らうように、人工的な線を自然物で作るんです。その発想はすごい。いつも学生に紹介しているのですが、先ほどのリチャード・ウェントワースとアンディー・ゴールズワージーは「しるす」という意味では世界二大アーティストかなと思っています。こういう話をすると、可視化というのをかなり難しくしちゃっているかな。でもまぁ彼らはアーティストとして有名になるくらいすごいから。


――今回のコンペティションはアート作品ではない、量産化されるかもしれないプロダクトである点においても、もしかしたら面白さがあるかもしれないですね。

そうですね。「誰のためのデザイン」を書いたドナルド・ノーマンなんかはアフォーダンスを人間工学的な意味で使ったけれど、やっぱりプロダクトには手がかりがあって。扉を右から左に開けるという動作の理解はドアハンドルの位置で明白だけれど、ハンドルがついていない場合は、すごく細かいところで判断するんですよね。たとえばヒンジの位置とか、押すところが汚れているとか。人間を自然にいざなうものを表せることもある。

「機能を可視化する」ことは、とても重要です。インタラクションデザインというのは、どうしても画面に映り込むグラフィックだと思われがちだけれど、実際はハードウェア自体がはっきりとしたインターフェースなんです。


――使う人が気づかないうちに、さりげなく可視化されたものなんですね。

そういうことです。だから作家としての思い入れが強すぎても、ちょっとやりすぎてしまうんです。さりげなく気づいてもらうけれど、無頓着で通りすぎて、でも結果的に合っている、くらいのものが良いでしょう。僕がよく出す事例の傘立てみたいに、溝があるから立てるのもしるしかもしれない。
昔、シヤチハタと仕事をしたときに「シヤチハタはもう『簡単に押せる印鑑』という意味だから、公共のものと思ってデザインしてください」とプレゼンテーションしたのを覚えています。自分のブランド名を背負うものを超えているということですね。
そもそもアップルのiPhoneのような、世界数億人が同じものを使うような現象が起き始めたのもここ10年ぐらいです。その前はマーケティングというと、自分のアイデンティティのしるしをつけたくてしょうがないという状態でした。そういう時代が過ぎて、人間が道具に気づかないまま使っているような関係にまでなっている。「物と人と環境」の関係性を作るところまでデザインが昇華していけば、もっと良い社会が来るとは思うんですけどね。シヤチハタのコンペでも「デザイン」がつくと、何か施さなきゃいけないという呪縛があります。


――最後に、今のお話にも通じますが、今回の応募者に伝えたいことがあればお願いします。

可視化すること自体が意図的すぎるとだめだという話にさっきなったけれど、自然との良い関係を保つことに対して、デザイナーは力を発揮しなきゃいけません。そのために良い関係とは一体どういうことなんだろう、ということをどこかで体験しなきゃいけないですね。その体験の場所として、このコンペが成立すればいいなというふうに思いますし、そこに果敢に挑戦していただければ嬉しいです。


取材・文:角尾舞