会わないからこそ伝わること

パンデミック以降、人と会う機会は減りましたが、会話は減っていません。対面で話す方が気持ちが伝わると言われがちですが、僕は最近むしろ逆だなと思っています。会って話すと表情や動作など、すべての態度が見える分、対話自体の内容は薄くなることもある。ショートメッセージやSNSを通じたやり取りでは、たしかに相手がどういう状況にあるのかはわかりません。相槌を打ってくれているのか、どんな表情なのかもわからない。それを僕たちは、メッセージの句読点や、「!」や、絵文字などの些細な表現から推し量ります。そういう小さな、ある意味では容易いコミュニケーションのしるしが、意外と人間の心に響くのだなと感じているんです。 インターネット上のやり取りは、ウソをついたり取り繕えたりするようでいて、あらわになる部分もあります。ビジネスレターであっても、文面からその人の優しさやインテリジェンスが伝わることもあるでしょう。逆にこの人とは一緒に仕事ができないだろうと感じてしまうこともある。むしろ、会って話していたら分からなかっただろうと思うときもあります。もちろん文面だけでは誤解もあるだろうし、妄想みたいな部分もある。本当かどうかわからない危うさがあります。それでも、そこにある対話はまぎれもない事実であると感じるんですよね。どうでもいい言葉に傷つくのはもちろん、丁寧な返信が意味深な気もしてしまう。これは今までとは違う、全く新しい関係性だなと感じています。会えないとか、会話が少ないとかによって、人間のつながりを太いものにしている部分は大いにあると思います。

愛を込めるにふさわしいもの

だからこそ今回のテーマである「こころを感じる」を、ただ良いことだとしてしまうと心配です。人間、的確に伝えたいときもあれば、すり抜けたいときもある。状況によるんですよね。思いやりとか、愛とか、たしかにそういう言葉を使いたくなるシーンも人生にはあるけれど、そうしょっちゅうではないでしょう。ちょっとくさいし。本当は、態度で示す方が大事です。しるすより示す。だからこそ今回のテーマはかなりチャレンジングです。 デザイナーにとって、作ったものが日常のなかにあって「うざいな」って思われたら最悪なんです。デザインがすごいと思われているブランドのプロダクトほど、人の意識に静かに自然に溶け込んで、姿を消してしまいたいという思いを共通して持っていると思います。僕らはものを作っているから、それが相手に与える影響は当然考えますが、同時にそれほど大きな影響は与えない方がいいのかなと思うこともあるんです。 ものを介して心が伝わることはたしかにあるし、ものに愛を込めることもできます。それに必要なのは、込めるにふさわしいものを作ること。どう見てもダサいものに愛を込めるのは無理です。相当がんばらないといけませんが、同時に、おごらずにさらっとやってほしいですよね。ここ2~3年の時代の変化はかなり激しいものです。人間の心のひだに入り込むような状況が、日常にも増えてきています。だからただこれまでのコンペの延長として捉えず、私たちの置かれている状況や対話を考えたうえでアイデアを出してもらえるとよいと思います。

誰かの日常になるということ

例えば自分でデザインした椅子を考えても、置いてある場所によって座ったときの感じ方は違います。自分がどこに佇みたいか、そこにふさわしい椅子かどうか。つまり、今回のようなテーマのデザインに必要なのはシナリオです。デザイナーが間違えがちなのが、誰に聞いても違和感があるストーリーなのに、さも正解のように書いてしまうこと。シナリオというのは人間の営みのなかから立ち現れてくるものです。もちろん物語が最終成果物ではありませんが、「この状況でこのしるしを見たら、私の心は落ちた」みたいな。そういうものって実際あると思うんですよ。 僕はこれまで何百、何千のものをデザインしてきましたし、おそらく世界中で何万人もの人が使ってくれています。そのなかで誰かにあげたいと思うものは意外と少ないのですが、ときどきそういうものもあります。自分がデザインしたこれをあなたにひとつ差し上げますというとき、それは大量生産品であっても、普通のものから特別なものに変わるかもしれない。デザイナーであればこそ、そういう可能性はあってもよいかもしれない。自分の生み出した日常がその人の日常になるなんて、結構すばらしいロマンじゃないですかね。もちろん「私のこころのしるしです」なんて、言わないけれどね。

 

取材・執筆:角尾 舞