会わないからこそ伝わること

パンデミック以降、人と会う機会は減りましたが、会話は減っていません。対面で話す方が気持ちが伝わると言われがちですが、僕は最近むしろ逆だなと思っています。会って話すと表情や動作など、すべての態度が見える分、対話自体の内容は薄くなることもある。ショートメッセージやSNSを通じたやり取りでは、たしかに相手がどういう状況にあるのかはわかりません。相槌を打ってくれているのか、どんな表情なのかもわからない。それを僕たちは、メッセージの句読点や、「!」や、絵文字などの些細な表現から推し量ります。そういう小さな、ある意味では容易いコミュニケーションのしるしが、意外と人間の心に響くのだなと感じているんです。
インターネット上のやり取りは、ウソをついたり取り繕えたりするようでいて、あらわになる部分もあります。ビジネスレターであっても、文面からその人の優しさやインテリジェンスが伝わることもあるでしょう。逆にこの人とは一緒に仕事ができないだろうと感じてしまうこともある。むしろ、会って話していたら分からなかっただろうと思うときもあります。もちろん文面だけでは誤解もあるだろうし、妄想みたいな部分もある。本当かどうかわからない危うさがあります。それでも、そこにある対話はまぎれもない事実であると感じるんですよね。どうでもいい言葉に傷つくのはもちろん、丁寧な返信が意味深な気もしてしまう。これは今までとは違う、全く新しい関係性だなと感じています。会えないとか、会話が少ないとかによって、人間のつながりを太いものにしている部分は大いにあると思います。

しるされるのはなにか?

このコンペでは毎年手を変え品を変え「しるし」をテーマにしていますが、そもそも「しるし」とはなんでしょうか。人は何をしるすのかというと、突き詰めれば「わたし」なんですね。だから僕は毎年、節目のように「わたし」について考えさせられます。
近年はインターネットの普及により、「わたし」の捉え方が少し変わってきている気がします。70〜80年代は「個」が社会より優先されてきました。「世界にたった一人のあなた」とか「あなたらしく」とか、そういうことを世の中は個人に対して言い続けてきた。これはおそらく「国家」が偏重されていた戦前の体制への反動だと思いますし、そこは共感できます。しかしながら、近年の地球温暖化や感染症などの問題は、「わたし」ではなく「わたしたち」が直面している問題です。
そもそも生命というのは連綿と続いていく存在で、一世代かぎりの個体本意で考えるものではないかもしれません。人間はせっかちな動物で、歩き回って食物を採取し、空腹を満たします。それを合理的に行うためには、個々の細胞が個別に判断して動くのではなく、一度脳に情報を集約し、脳がその個体の生存にとっての最適性を判断し、身体のパーツに素早く司令を出すわけです。ヒトの動作の多くはそういうメカニズムでできています。一個体のための最適解を矢継早に判断していく必要があるからでしょう。その結果として、脳はいつしか「わたし」という幻想を持つようになったのかもしれません。つまり人間は、いつからか、植物などとは異なる生存戦略をとるようになったのです。本来は「WE」であるはずの生命が「I」という意識を持ってしまったことに、ホモサピエンスの一つの限界があるのかもしれません。

心を表す解像度

心の世界って、描写の解像度がすごく低いと思うんですよね。ものの形状や機能性の表現に比べて、どうしても自分の心を基準にするからか、ボキャブラリーが少ないものが多い。だから今回の「こころを感じる」は漠然としたテーマだなと思いつつ、心の捉え方の解像度が高まるようなものが生まれるといいのかなと思っています。曖昧な心というものに向き合う意味があるとしたらそこかなと。
例えば「愛」っていっても、その愛という言葉の概念を見る解像度が高まるといいですね。僕は情動的なものが比較的苦手なタイプなので、自分ではなかなか作れないですけれど、たまに映画や小説で見つかる瞬間もあります。そういう作品はやっぱり心の描写に対する解像度がすごく高くて、これまであまり見えていなかった人間の心の部分が明らかになる感動があるんですよね。ただそれをプロダクトのようなかたちで見せるのは至難の業なので、もしかしたらないものねだりの願望なのかもしれないですけれど。ボキャブラリーが少ないなかで心のポエムを書こうとすると、どうしても荒くなるんですよね。LEDが一つ点灯することに対して「そこまで思う?」みたいな過大な思い入れを伝えてくるアイデアなどはすごく多いです。